藤間柴の家系図から読み解く華麗なる芸能一族の歴史

藤間柴の家系図から読み解く華麗なる芸能一族の歴史

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日本舞踊や歌舞伎に興味がある方の中には、藤間柴の家系図を通して初代藤間紫やその一族について詳しく知りたいと考える方も多いのではないでしょうか。

藤間紫は、舞踊家としてのみならず、映画やテレビでも活躍した女優としても広く知られており、その華麗な人生は多くの人に影響を与えました。

藤間紫の若い頃には、師であり後に夫となる六世藤間勘十郎に学び、早くから才能を開花させました。

また、藤間紫は女優としても注目され、NHKの藤間紫の朝ドラや多くの時代劇作品に出演し、藤間紫の学歴以上に培われた芸道での経験が演技力を支えていたと言われています。

さらに、藤間紫と松たか子の間にも、直接の血縁関係こそないものの、松本家との長年にわたる芸道上の深い交流があり、伝統芸能を支える者同士の絆がありました。

その後、藤間紫の二代目は、三代目市川猿之助(後の二代目市川猿翁)が襲名し、紫派藤間流の家元として流派を支え続けます。

そして、藤間紫の息子である藤間文彦は俳優や舞台プロデューサーとして活動し、藤間紫の孫たちも舞踊家や女優として現在も活躍しています。

また、藤間流の家系図を見ると、藤間家は代々の血縁や師弟関係を大切にしながら、伝統と革新を融合させてきた家系であることがわかります。

この記事では、藤間柴の家系図をもとに、初代藤間紫とその家族、そして孫たちがどのように芸能の世界で活躍してきたのかを詳しく解説します。

読み終える頃には、きっと藤間家の歴史や藤間紫が遺した芸の奥深さを知ることができるはずです。

◆記事のポイント

– 初代藤間紫と藤間柴 家系図に関わる家族構成や系譜
– 藤間紫の若い頃から晩年までの舞踊家・女優としての経歴
– 藤間紫 二代目や孫たちによる紫派藤間流の継承と現在の活動
– 藤間紫と松たか子をはじめとする歌舞伎界との関係や繋がり

藤間柴の家系図と初代藤間紫の華麗な一族

  • 初代藤間紫とはどんな人物?
  • 家族・親族構成をめちゃくちゃ詳細に
  • 松たか子との意外な関係
  • 二代目を襲名したのは誰?
  • 若い頃の経歴と舞踊家人生
  • 朝ドラ出演と女優としての活躍
  • 学歴や舞踊界との関わり

初代藤間紫とはどんな人物?

初代藤間紫は、日本舞踊界と芸能界の両方で活躍した、非常に個性豊かな舞踊家・女優です。1923年5月24日に東京府東京市本郷区根津宮永町(現在の東京都文京区)で生まれ、本名は喜熨斗綾子(きのし あやこ)です。父親は医師であり日本医科大学の初代理事長でもあった河野勝斎で、文化人・学者たちとも交流のあった名士でした。

藤間紫が日本舞踊の世界に入ったのは、12歳のとき、六世藤間勘十郎(のちの2世藤間勘祖)に入門したのが始まりです。若くして舞踊の才能を認められ、21歳の時に「紫」の名を受け、名取となりました。その後、師匠でもあった藤間勘十郎と結婚し、宗家藤間流の中心的存在となります。

しかし、彼女の人生は一筋縄ではいきません。1960年代からは、当時人気歌舞伎俳優だった三代目市川猿之助(のちの二代目市川猿翁)と公然の仲になり、藤間流の内外で大きな話題を呼びました。勘十郎との離婚後、1987年には新たに「紫派藤間流」を創設し、宗家藤間流から独立します。この流派は、以後藤間紫が家元となり、舞踊会を牽引していきました。

舞踊だけでなく、女優としても多くの作品に出演しました。映画デビューは1949年の『グッドバイ』で、舞台では新国劇や帝国劇場、明治座などで活躍。特に1995年の猿之助演出『西太后』では圧倒的な存在感を示しました。長年にわたり芸能界・舞踊界に貢献し、1980年には菊田一夫演劇賞優秀賞、1991年には同賞大賞、さらに1994年には読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞するなど、数々の栄誉にも輝きました。

晩年は肝不全を患い、2009年3月27日に85歳でこの世を去りました。最期まで舞踊と舞台に情熱を注ぎ続けた人物であり、その生き方や芸は今でも多くの人に語り継がれています。

家族・親族構成をめちゃくちゃ詳細に

藤間紫の家族構成は、まさに「芸能・舞踊界のサラブレッド」と言えるほど著名人ぞろいです。その血縁関係は複雑でありつつも、伝統と実力に裏打ちされた系譜になっています。

父親は河野勝斎。日本医科大学の初代理事長・学長を務め、日本私立大学協会の会長も経験した名医でした。勝斎は6代目尾上菊五郎など、当時の歌舞伎界の大物たちの主治医を務め、娘である藤間紫が歌舞伎や舞踊の世界に進むきっかけを作ったとも言われています。

初代藤間紫には、兄弟姉妹が8人おり、合計9人兄弟という大家族です。その中には芸能界や医師として活躍した人物も多く、特に弟の河野均は歌舞伎俳優として有名な「6代目中村東蔵」として知られ、人間国宝にも認定されました。中村東蔵は男女の役柄を巧みに演じ分ける実力派で、今なお多くの舞台で活躍しています。

藤間紫は若くして六世藤間勘十郎(本名:藤間秀雄、後の2世藤間勘祖)と結婚します。この結婚により、舞踊界の名門「藤間流」の中核に入り、夫との間に2人の子供をもうけました。長女は、のちに「3代目藤間勘祖」を襲名する藤間高子であり、長男は俳優やプロデューサーとしても活躍した藤間文彦です。

さらに、藤間文彦は女優・島村佳江と結婚しており、その子供たちもまた注目を集めています。長男は、元ジャニーズJr.の経歴を持つ藤間貴彦で、後に「初代藤間翔」を襲名し、舞踊家として活動中です。長女は藤間爽子で、女優・舞踊家として活動する一方、2021年には「3代目藤間紫」を襲名しました。これにより、初代藤間紫の孫である藤間爽子が家元を継ぎ、紫派藤間流の新たな歴史を築いています。

また、藤間紫は1985年に六世藤間勘十郎と離婚後、2000年に市川猿之助(のちの2代目市川猿翁)と再婚しています。猿翁は彼女の再婚相手でありつつ、舞踊界の発展に大きく関わった人物でもあります。藤間紫との結婚後、「2代目藤間紫」として紫派藤間流の名跡を受け継ぎました。

このように、藤間紫の家系は、代々にわたって歌舞伎・日本舞踊・俳優・女優という幅広い分野で活躍する芸能一族であり、血筋だけでなく個々の実力と実績により日本の伝統芸能を支え続けていると言えるでしょう。

松たか子との意外な関係

藤間紫と松たか子は、直接の血縁関係はありませんが、日本の伝統芸能界において密接な関わりを持つ存在です。松たか子は、言わずと知れた歌舞伎俳優・九代目松本幸四郎(現・二代目松本白鸚)の娘で、松本家は歌舞伎界の名門「高麗屋(こうらいや)」を継承しています。

この関係が生まれたきっかけは、藤間紫の父・河野勝斎と六代目尾上菊五郎、七代目松本幸四郎(松たか子の祖父)との交流にあります。勝斎は、歌舞伎界の重鎮たちの主治医として、家族ぐるみで松本家と親しくしていました。その縁から、藤間紫は幼少期より松本家とも交流を深め、七代目松本幸四郎に見出されて舞踊の道に進んだという逸話も残されています。

また、舞踊界・歌舞伎界における名跡「藤間流」と「松本家」は、共に日本の伝統芸能を支える重要な家系として、長年にわたって共演や師弟関係を築いてきました。舞踊と歌舞伎は切っても切れない関係にあり、松たか子の父や兄である十代目松本幸四郎も、舞台で紫派藤間流と関わる機会が多くありました。

さらに、舞踊家としての藤間紫と、女優としての松たか子の関係は、芸能界というフィールドでも交錯しています。特に松たか子が歌舞伎だけでなく、現代劇や映画にも出演するようになって以降、藤間紫との共演や間接的な繋がりも話題となりました。

親戚というよりは、古くからの家付き合いと芸道を通じた「芸能界の同志」というのが正しい表現ですが、両家の間には確かな信頼関係があったと言えるでしょう。

二代目を襲名したのは誰?

二代目藤間紫を襲名したのは、三代目市川猿之助(後の二代目市川猿翁)です。1990年代後半から2000年代にかけて舞踊界で大きな話題になった出来事のひとつが、この「男性による藤間紫の襲名」です。

そもそも「藤間紫」という名跡は、初代藤間紫が1987年に宗家藤間流を離れ、新たに創設した「紫派藤間流」の家元名です。初代の紫が夫であった六世藤間勘十郎と離婚した後、自らの流派を立ち上げ、その象徴として名乗ってきました。

その後、2000年に藤間紫は長年の事実婚状態だった市川猿之助と正式に結婚します。この時、猿之助は藤間家の養子となり、「二代目藤間紫」を襲名しました。彼の本名は喜熨斗政彦(きのし まさひこ)で、歌舞伎界においては「市川猿翁」としてスーパー歌舞伎の創始者としても知られる重鎮です。

猿翁が藤間紫を襲名したのは、単なる形式的なものではなく、紫派藤間流の継承と発展に大きく関わる役割を担うものでした。実際、襲名後は紫派藤間流の公演や指導にも積極的に関与し、舞踊界と歌舞伎界の橋渡しを行いました。

一方で、この襲名は業界内外に衝撃を与えました。「女性が代々継承する」というイメージが強かった「藤間紫」の名を、男性である市川猿之助が継いだことで、賛否両論が巻き起こったのです。ただし、猿翁は紫派藤間流を守り、初代藤間紫の遺志を継ぐ立場として十分に信頼されていました。

その後、2021年には藤間紫の孫にあたる藤間爽子が「三代目藤間紫」を襲名し、名跡は再び女性の手に渡りました。この流れは、藤間流・紫派藤間流が血縁・芸脈を重んじながらも、時代の変化に柔軟に対応してきた象徴的なエピソードといえます。

若い頃の経歴と舞踊家人生

藤間紫は、1923年に東京都文京区根津で生まれました。幼少期から文化人の家庭に育ち、父・河野勝斎は日本医科大学の初代理事長、さらに歌舞伎界とも深い関わりを持つ医師でした。その影響で藤間紫も自然と日本舞踊や演劇に親しむ環境で育ったと言われています。

12歳のとき、彼女は六世藤間勘十郎(後の二世藤間勘祖)に弟子入りします。これが彼女の舞踊人生の始まりです。師匠であり、のちに夫となる勘十郎から舞踊の基礎を徹底的に学び、1944年、21歳の時に「紫」の名を授かり、若くして名取となりました。この時点で既に藤間紫は、藤間流の将来を担う存在として注目を集めていたのです。

その後、24歳年上の師匠・藤間勘十郎と結婚し、夫婦ともに舞踊界の重鎮として活躍します。特に戦後から昭和30年代にかけては、『椎葉の里』『青銅のキリスト』などの創作舞踊を発表し、日本舞踊の新しい表現を追求する革新派としても知られるようになりました。藤紫会と呼ばれる自主公演も盛んに行い、多くの観客を魅了しました。

また、1960年代からは、三代目市川猿之助(のちの二代目市川猿翁)との交流が始まり、舞台創作や演劇活動にもより力を入れるようになります。こうして、藤間紫は、単なる伝統舞踊家ではなく、時代に合わせて新しい舞踊表現や舞踊劇に挑み続けた、革新的な舞踊家として認知されました。

1985年には藤間勘十郎と離婚し、1987年には「紫派藤間流」を創設。宗家藤間流から独立し、自ら新流派の家元となりました。以後は、東京・大阪での定期公演やリサイタル「藤間紫の会」などを開催し、舞踊家としての地位を確立し続けました。晩年まで舞台に立ち続け、85歳で亡くなる直前まで、常に日本舞踊の第一線に身を置き続けた人物です。

朝ドラ出演と女優としての活躍

藤間紫は、舞踊家としてだけでなく、女優としても戦後から長く活躍したことで知られています。女優デビューは1949年、新東宝映画『グッドバイ』への出演が最初です。この作品では舞踊家としてではなく、純粋な女優として新たな一面を見せました。

その後、1950年代から1970年代にかけては、多くの映画やテレビドラマに出演します。中でも、NHKのテレビドラマや、当時人気を誇った『東芝日曜劇場』、『夫婦百景』などのドラマでは、母親役や女将役として親しまれました。また、舞台では新国劇『野口英世』、帝国劇場での『椎葉の里』、明治座での『青銅のキリスト』など、名作に次々と出演し、女優としての評価を確立していきました。

藤間紫が注目を集めた理由は、単に舞踊家の肩書きを持っているだけではなく、深みのある演技力と日本女性らしい情感を演じきる表現力にありました。特に舞踊の所作が自然と芝居に生かされ、身体の動きや姿勢の美しさが、他の女優とは一線を画していたと評されています。

朝ドラへの出演は、彼女の晩年に近い時期ではなく、1950年代から1970年代のNHKドラマや時代劇作品が中心となります。昭和期のドラマには多く出演しており、特にNHKの時代劇『水戸黄門』や『大岡越前』、そして大河ドラマ『八代将軍吉宗』では重要な役どころを演じました。

1995年には、猿之助(猿翁)演出による舞台『西太后』で主演を務め、60代後半にもかかわらず圧倒的な存在感を放ちました。この時の演技は、観客や評論家から「まるで舞台の上で一人別格の世界を作っていた」と絶賛され、藤間紫の女優としての集大成とも言える舞台となりました。

こうした女優としての活動は、紫派藤間流を興した後も継続され、単なる舞踊家ではない「二刀流」の才能を発揮し続けたのが藤間紫の大きな魅力です。女優としての出演歴は、現在でも映像作品や再放送で目にすることができ、舞踊家としての顔とはまた異なる、温かみや力強さを感じることができます。

学歴や舞踊界との関わり

藤間紫は、東京都文京区根津出身で、幼少期から文化的に恵まれた環境で育ちました。父親である河野勝斎は、日本医科大学の初代理事長であり、学長も務めた医学界の権威です。こうした家庭環境の中で、藤間紫も当然のように教育を受けて育ちましたが、学歴に関する具体的な学校名や卒業歴は公表されていません。ただ、当時としては珍しく、一定水準以上の教育を受けていたと考えられています。

その背景には、9人兄弟という大家族の中で、4人が芸能、2人が医師という、知識と教養を重んじる家風がありました。兄弟の多くが高等教育を受けたことから見ても、藤間紫も同様に教養ある女性であったことは想像に難くありません。

舞踊界との関わりが本格化したのは、12歳のとき、六世藤間勘十郎(後の二世藤間勘祖)に入門したことが始まりです。この入門は、父・河野勝斎が六代目尾上菊五郎や七代目松本幸四郎と親しかった関係が影響しており、娘が舞踊の道に進むにあたって強い後押しとなりました。

その後、藤間紫はわずか21歳で、師匠である藤間勘十郎から「紫」の名を授かり、名取となります。これは当時の舞踊界でも異例の早さであり、才能がずば抜けていたことが伺えます。舞踊家としては、藤間流の主要な舞台や公演で活躍する一方、1950年代には舞踊劇の創作にも意欲的に取り組み、『椎葉の里』や『青銅のキリスト』などの新作舞踊を発表しました。これにより、単なる古典舞踊の継承者ではなく、革新的な舞踊家としても認められました。

さらに、1987年に「紫派藤間流」を創設して以降は、宗家藤間流から独立し、毎年東京や大阪で独自の舞踊公演を開催しています。この新流派の設立は、舞踊界でも大きな話題となり、従来の型にとらわれない自由な舞踊表現を志す流派として、多くの門弟を抱えるまでに成長しました。

また、舞踊と並行して俳優業にも取り組んでいた藤間紫は、舞台や映画、テレビドラマなど多方面で活躍し、演技にも舞踊で培った所作や身体表現を生かしました。特に大劇場でのリサイタル「藤間紫の会」は、舞踊と芝居を融合させた独自の世界観を築き、ファンや関係者から高い評価を受けました。

このように、藤間紫は学歴や形式的な教育だけでなく、幼少期からの実践的な芸の修行と経験によって、舞踊家・女優として一流の地位を築いたと言える存在です。育った環境、芸能界との縁、そして自身の努力が重なり、彼女を日本舞踊界のトップに押し上げたのです。

 

藤間柴の家系図から見る家族と子孫たち

  • 息子・藤間文彦の経歴とは
  • 孫たちの現在の活動
  • 藤間流の家系図に見る伝統継承
  • 藤間紫の家族と藤間流の分裂騒動
  • 最期と家族のその後

息子・藤間文彦の経歴とは

藤間紫の長男である藤間文彦は、1951年6月10日に東京都で誕生しました。藤間家という日本舞踊の名門に生まれながら、彼は舞踊ではなく俳優の道を選んだことで知られています。若い頃から芸能界に興味を持ち、大学時代には立正大学に在学しつつ、俳優活動をスタートさせました。

俳優としてのデビューは1970年、テレビドラマ『花嫁の父』で母・藤間紫との共演を果たし、注目を集めます。その後、1971年にはNHKの青春ドラマ『ガッツジュン』で主役に抜擢され、幅広い世代に顔を知られる存在となりました。この作品は、野球を題材にした青春ドラマであり、藤間文彦は情熱的な高校球児役を演じ、多くのファンを獲得します。

また、1972年のNHK「銀河テレビ小説」では主演を務め、俳優として順調にキャリアを積み重ねました。しかし、1982年公開の映画『怪異談 生きてゐる小平次』への出演を最後に、俳優業からは引退します。

その後、藤間文彦は舞台の裏方や興行に携わるようになり、二代目市川猿翁(旧・三代目市川猿之助)が主宰する「株式会社おもだか」の社長に就任しました。舞台プロデューサーや興行の責任者として、歌舞伎や舞踊公演の裏方を支える立場で活躍するようになります。

特筆すべきは、母・藤間紫との関係です。不倫や離婚劇など家庭内の複雑な事情はありましたが、母子の関係は決して悪化したわけではなく、藤間紫の葬儀では長男の藤間文彦が喪主を務めています。舞踊家としての道は選ばなかったものの、結果的に藤間流や紫派藤間流を支える重要な役割を果たした人物と言えるでしょう。

孫たちの現在の活動

藤間紫の孫にあたるのは、藤間文彦の子供たちである藤間貴彦(ふじま たかひこ)と藤間爽子(ふじま さわこ)の二人です。ともに、現代の舞踊界や芸能界で注目される存在となっています。

長男の藤間貴彦は、1992年1月22日生まれで、かつてはジャニーズJr.に所属していたことで知られています。ジャニーズJr.時代は「TOPS」というグループのメンバーとして活動していましたが、ほどなくしてグループは解散。その後は青山学院大学へ進学し、大学卒業後、家業である日本舞踊の世界へと本格的に進みました。2021年には「初代藤間翔(ふじま かける)」を襲名し、紫派藤間流の舞踊家として活動を続けています。舞踊の舞台を中心に活躍する一方で、若手舞踊家としてメディアにも登場することがあり、今後の成長が期待されています。

次に、長女の藤間爽子は1994年8月3日生まれです。青山学院大学文学部を卒業後、芸能事務所「レプロエンタテインメント」に所属し、女優として芸能界入りしました。2017年にNHK連続テレビ小説『ひよっこ』で女優デビューを果たし、その後もドラマ『ちむどんどん』や『silent』など、話題作に次々と出演しています。

さらに2021年には、紫派藤間流の「三代目藤間紫」を襲名。祖母・藤間紫の後継者として、名跡を受け継ぎました。現在は、女優業と舞踊家の二刀流で活躍しており、舞台・テレビドラマ・舞踊公演など、さまざまなジャンルで存在感を発揮しています。

なお、孫たちはそれぞれ異なる道を歩みつつも、紫派藤間流の伝統や家族の誇りを守り続けています。特に藤間爽子は、現代の若手舞踊家・女優として注目度が高く、舞踊界・芸能界の両方でその存在が広がりつつあります。こうした背景から、初代藤間紫が築いた舞踊と芸能の世界は、次世代にも確実に受け継がれていると言えるでしょう。

藤間流の家系図に見る伝統継承

藤間流は、1704年(宝永元年)に創設された日本舞踊の名門流派であり、その長い歴史の中で、数多くの名取や家元を輩出してきました。創設から現在に至るまで約300年以上にわたり、家元制度によって代々血縁や門弟がその伝統を継承してきました。

藤間流の特徴は、単に舞踊の型や技術を受け継ぐだけでなく、流儀ごとに独自の美意識や舞踊劇、演目の伝承が行われてきた点です。家系図に名を連ねる家元や高弟たちは、日本舞踊界や歌舞伎界の発展に大きく寄与してきました。

特に、藤間紫の家系を辿ると、その伝統継承の形がより明確に見えてきます。初代藤間紫は、六世藤間勘十郎(後の2世藤間勘祖)から直接指導を受け、藤間流の中でも舞踊劇や新作舞踊の創作に積極的に関わった一人です。また、夫である六世藤間勘十郎は、宗家藤間流の家元を務めるだけでなく、紫が名取となった際には「紫」の名を授けています。

さらに、娘の藤間高子(後の三代目藤間勘祖)や息子の藤間文彦、そして孫たちへと、家系図を通じて舞踊の技術や精神が継承されています。孫である藤間爽子が2021年に「三代目藤間紫」を襲名したことで、舞踊家族の血筋が今も脈々と受け継がれていることが証明されました。

このように、藤間流の家系図は、芸の伝承だけでなく、血縁や師弟関係による継承の重要性を示しています。古典舞踊の維持に加え、藤間流は常に新しい表現にも挑戦し続けており、伝統と革新の両立がこの流派の大きな特徴と言えるでしょう。

藤間紫の家族と藤間流の分裂騒動

藤間紫の家族は、藤間流の内紛、いわゆる「藤間流分裂騒動」に深く関係しています。この騒動は、1980年代に藤間紫が夫・六世藤間勘十郎(2世藤間勘祖)と離婚したことを発端に、藤間流内部で大きな波紋を呼びました。

発端は1960年代後半、藤間紫が当時人気絶頂だった三代目市川猿之助(のちの二代目市川猿翁)と事実婚状態で同居するようになったことです。藤間紫は夫である藤間勘十郎と婚姻関係にありながら、猿之助との関係を深めていきました。この関係は当時の芸能マスコミでも報じられ、舞踊界でも大きな問題となりました。

そして1985年、藤間紫と藤間勘十郎が正式に離婚。これにより、藤間紫は宗家藤間流から離脱する形となります。その2年後、1987年に藤間紫は自身の新流派「紫派藤間流」を立ち上げました。この新流派の設立は、長年続いてきた藤間流にとって大きな衝撃であり、舞踊界全体を巻き込む騒動へと発展しました。

この分裂には、藤間流内部でも賛否両論がありました。一部の門弟や家族は宗家藤間流に残る道を選びましたが、藤間紫に賛同する舞踊家や弟子も多く、紫派藤間流の設立を支持しました。結果として、宗家藤間流と紫派藤間流という二つの流派が併存する形で現在に至っています。

この騒動は、舞踊界だけでなく、歌舞伎界、芸能界にも大きな影響を与えました。猿之助(猿翁)も、紫派藤間流に加わり、2000年に正式に藤間紫と再婚したことで、紫派の家元として積極的に活動するようになります。

一方、長女である藤間高子(現・三代目藤間勘祖)は、藤間勘十郎の後を継ぎ、宗家藤間流を守り続けています。このように、母娘で異なる流派を率いるという異例の状況が生まれたのです。

この騒動は、日本舞踊界にとって単なる内紛ではなく、流派の在り方や芸能界の在り方にまで一石を投じた出来事でした。現在でも、紫派藤間流と宗家藤間流は、それぞれ独自の道を歩み続けていますが、いずれも日本舞踊界を代表する流派として高い評価を得ています。

最期と家族のその後

藤間紫は、2009年3月27日、東京都内の病院で肝不全のため85歳で亡くなりました。晩年は長年連れ添った二代目市川猿翁(旧・三代目市川猿之助)と共に、紫派藤間流の家元として舞踊公演を続けていました。亡くなる前年まで舞台に立ち続けるなど、最期まで芸の道を全うした人生でした。

葬儀は、2009年3月31日に東京都内で行われ、喪主は長男の藤間文彦が務めました。葬儀には多くの関係者や弟子たち、芸能界・舞踊界の著名人も参列し、故人の功績を偲ぶ場となりました。葬儀後に発表された戒名は「優照院賢徳紫芳大姉」とされ、舞踊家としての高い徳を讃えるものでした。

藤間紫の死後、家族それぞれが新たな道を歩み始めます。長女・藤間高子は、既に三代目藤間勘祖を襲名し、宗家藤間流の家元として活動を続けており、紫派藤間流とは別に本流を支えています。また、長男・藤間文彦は俳優業を引退後も「株式会社おもだか」の社長として、二代目市川猿翁を支え続けました。猿翁の晩年はパーキンソン病による闘病生活が続きましたが、文彦は舞台運営や興行の面で重要な役割を果たしてきました。

さらに、藤間紫の孫たちも芸能・舞踊界で活躍を見せています。孫である藤間貴彦は、2010年代に「初代藤間翔」を襲名し、紫派藤間流の男性舞踊家として活動を本格化させました。元ジャニーズJr.という異色の経歴も話題となり、舞踊界内外から注目を集めました。

一方、孫娘の藤間爽子は、女優としてドラマや映画に出演しつつ、2021年に「三代目藤間紫」を襲名しました。若くして舞踊家と女優の二刀流をこなし、紫派藤間流の家元として活動するなど、現代における新しい舞踊家像を築いています。近年は『silent』『ちむどんどん』など話題作への出演でも広く知られるようになりました。

また、猿翁が2023年9月に83歳で逝去した際には、藤間紫の遺志を継いだ紫派藤間流の門弟たちが、その後の流派を守るために舞踊会を継続しています。家族や関係者は、紫派藤間流だけでなく、舞踊界全体の発展に貢献する姿勢を変えていません。

このように、藤間紫の最期をきっかけに家族はそれぞれの立場で芸能と舞踊を支え続けています。紫が遺した舞踊家精神は、家族や門弟を通じて今なお息づいており、日本舞踊の世界に確かな影響を与え続けているのです。

藤間柴の家系図から見る華麗な一族と芸能界での軌跡

  • 初代藤間紫は1923年生まれで、本名は喜熨斗綾子
  • 父・河野勝斎は日本医科大学初代理事長で歌舞伎界とも交流が深い
  • 12歳で六世藤間勘十郎に入門し、21歳で「紫」の名を受け名取となる
  • 藤間紫は師匠である藤間勘十郎と結婚し、宗家藤間流の中核となった
  • 藤間紫は三代目市川猿之助と事実婚関係を経て後に再婚
  • 1987年に「紫派藤間流」を創設し、宗家から独立
  • 映画『グッドバイ』で女優デビューし、舞台・ドラマにも多数出演
  • NHK大河や朝ドラ、舞台『西太后』などで女優として高い評価を得た
  • 藤間紫の兄弟9人のうち、6代目中村東蔵など芸能・医師の分野で活躍
  • 長女・藤間高子は三代目藤間勘祖を襲名し、宗家藤間流を継承
  • 長男・藤間文彦は俳優・プロデューサーを経て「おもだか」社長を務めた
  • 孫の藤間貴彦は初代藤間翔を襲名し、紫派藤間流で活動
  • 孫の藤間爽子は三代目藤間紫を襲名し、女優と舞踊家の二刀流で活躍
  • 紫派藤間流と宗家藤間流は分裂後もそれぞれ独自に活動を継続
  • 藤間紫没後も、家族と弟子たちが紫派藤間流の伝統を守り続けている
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